名誉会長 重松 理さんと代表取締役 竹田光広さん

名誉会長 重松 理さん

ユナイテッドアローズ 名誉会長
重松 理さん

1949年神奈川県逗子市生まれ。76年ビームス設立に携わった後、89年ユナイテッドアローズを設立し、90年第1号店を開業。長きにわたりユナイテッドアローズを牽引し、2014年より現職。

代表取締役 竹田光広さん

ユナイテッドアローズ 代表取締役
竹田光広さん

1963年福岡県生まれ。86年に総合商社の兼松紅商に入社し、海外ブランドのリテールや商品開発で活躍。2005年ユナイテッドアローズ入社。12年重松氏より現職を託される。

「マルチチャネルの時代だからこそリアル店舗はもっと濃くなるべき」―名誉会長 重松 理さん

――ユナイテッドアローズは1990年の1号店開店以来、渋谷・原宿を常に重要な拠点としてきました。そもそもなぜこの地域だったのでしょう。

重松 当時の渋谷は都市開発によりどんどんお洒落で文化的な街に変貌していました。また原宿は東京のなかでアメリカの空気に触れられる数少ない場所として昔から若者に注目されていた。我々創業のメンバーの多くが在籍したビームスもこの界隈にあり、渋谷・原宿は今後ますます流行発信地となっていくだろうと考えたんです。

竹田 ユナイテッドアローズ創業時の頃はよく覚えていますよ。当時私はユナイテッドアローズと取引していた商社の大阪支社にいたのですが、出張時にお店にお邪魔して驚いた。

カジュアル主体だった従来のセレクト店と品揃えが異なり、世界中から厳選されたドレス系の重衣料が並んでいましたから。

重松 当時は渋カジ全盛。それに飽き足らない大人のお客様を呼び込もうと考えて品揃えしたんです。買い付けの7割が欧州、残り3割が米国だったかな。当時こんなお店は日本のどこにもなく、結果、良家の子女から年配の方まで本当に幅広い方が来店してくださった。

――92年には新たな旗艦店として原宿本店をオープンします。

重松 1号店はある意味実験店舗で、原宿本店で初めて我々のやりたいこと全てを表現できるように。じつはそれまで赤字続きだったのですが(笑)、原宿本店ができて業績も次第に上向いていきました。

――そこから飛躍的に店舗数を伸ばし、eコマースにも進出するなど、時代に対応しながら成長を遂げてきたユナイテッドアローズですが、30年の歴史でターニングポイントは?

重松 いろいろありますが、98年のユニクロ原宿店開業は大きな出来事でした。すぐ近くであの値付けをされたら勝負にならないと感じ、店頭から一部の商品を引き上げてしまいました。

でもこれは我々の先走りで、来客数は別に減っていなかったんです。お客様はファスト系と我々の扱う品は別物だとちゃんと認識してくださっていたのに、商品がないので売り上げを大きく落とした。こちらの芯がブレてはダメだと痛感した出来事でしたね。

あともう一つ忘れちゃいけないのがクロムハーツの導入。ドレス軸のユナイテッドアローズとはまるで毛色が異なるのにすごく好評で、売り上げの幹になってくれた。

竹田 クロムハーツはユナイテッドアローズのターニングポイントになったと思います。お客様にユナイテッドアローズの柔軟なセレクトを改めて理解頂けたというか。

「常に時代の波の先にいるのがユナイテッドアローズ今後も渋谷とともに変わり続けます」―代表取締役 竹田光広さん

――そんなユナイテッドアローズが、30年目の節目に渋谷駅前の新たな複合施設「渋谷スクランブルスクエア」に出店。最後にその意気込みを伺えますか。

竹田 今のお客様はますます利便性を追求するようになっています。こうした中でお店に来ていただくには、何らかのエンタメ性がないと厳しい。

その点渋谷スクランブルスクエアは新たな渋谷の象徴的な施設で、新店舗を置くには絶好だと思いました。ここで今のユナイテッドアローズの姿をめいっぱい新しく表現したいと考えています。

重松 店構え、品揃え、そして接客品質、すべてにわたってぶっちぎりでウチらしい“濃い”お店になればと願っています。昔は渋谷や原宿で洋服を買うことはとても刺激的な行為だったはず。それを今一度蘇らせてもらいたいですね。
 


[ビギン2019年12月号の記事を再構成]

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