string(38) "https://www.e-begin.jp/article/363870/"
int(1)
int(1)
  

プロ野球 読売ジャイアンツの新人自主トレと原辰徳監督

写真:報知新聞/アフロ

オフの過ごし方がシーズンの結果を左右する

 2022年が明けたばかりの1月。プロ野球の世界では、今年も選手たちが新たなシーズンに向けて自主トレーニング(以降、自主トレ)に精を出す姿があった。

 近年ではオフをどう過ごすか次第で次のシーズンの結果につながるとされ、年々重要視されつつあるこの期間。時代を経て、その位置づけはどのように変化してきたのか?
 たかが自主トレ、されど自主トレ。オフの過ごし方と合わせて、その歴史をかけ足で振り返る。

以前は休養することが最重視されていた

 まず、年号が「昭和」だった1980年代までのオフは、多くの期間を自主トレより「休養」する認識が強かった。
 当時は、シーズン中に満身創痍で奮闘した心身を休めて回復させることが第一とされ、特に年が明ける前の12月まではボールやバットから距離をおいていた選手のほうが多かったという。
 具体的な過ごし方は選手の年齢や格によりさまざまだったが、温泉宿で療養する選手もいれば、連日ゴルフに明け暮れ、夜の宴にお呼ばれされて羽目を外す武勇伝なども随所にあったようである。

 また、オフにアルバイトをしていた者もいたという。1982年に刊行されベストセラーとなった江本孟紀(元南海、阪神ほか)の著作『プロ野球を10倍楽しく見る方法』によると、ヤクルトの技巧派左腕投手として活躍した安田 猛は、自転車でお歳暮を配送するアルバイトをしていたそうだ。南海の内野手としてベストナインやダイヤモンドグラブ賞(現ゴールデングラブ賞)を獲得した桜井輝秀もゴルフ場のキャディーをしていたと書かれており、当時のプロ野球選手すべてが豪傑なオフを過ごしていたというわけではなかったらしい。

 ともあれ、年内は色とりどりのスタイルで休養すると、年が明けた1月からはいよいよ本腰を入れた調整に入ることになる。当時は現在とは異なり、ごく一部のベテラン選手や外国人選手、故障者を除き、ほぼ全員に招集がかかり、球団主導による「合同自主トレ」が行われていた。

大きな転機は合同自主トレの廃止

 こうしたオフの過ごし方の慣例は、昭和の終盤から徐々に変化していく。
 大きな風穴を開けたのは、中畑 清(元巨人)が初代会長に就任し、1985年に労働組合として認定された日本プロ野球選手会だった。
 選手会は球団側と「オフシーズンの明確化」について交渉し、数年後、選手と日本野球機構(NPB)が交わしている統一契約書に「2月1日から11月30日まで」と明記されている契約期間を厳守することが正式に認められたのだ。

 これにより、球団側は契約期間外となる12月1日から1月31日までの間、選手を拘束することができなくなり、1月に慣例として行われていた「合同自主トレ」は廃止。監督やコーチがオフに選手を指導することもなくなった(例外として、新人選手についてはトレーニングコーチによる指導が認められた)。
 選手たちは、当初こそコーチの導きを失ったことで戸惑う顔をみせたものの、年々試行錯誤を重ね、徐々に自分たちで調整をする術を身につけていく。

完全休養はほどほどに体を動かし続けるオフへ

 1990年代に入ると、選手の自主トレに対する意識は大きく変化していった。文字どおり“自主的に”行わねばならなくなったことで、自分自身で考えてセッティングするようになっていく。
 トレーニング理論に精通する専門家を招いて指導を仰いだり、パーソナルトレーナーと個人契約を交わす選手が徐々に現れ、海外や地方に場所を求めるなど、それぞれが自分の目的に合った体作りや調整方法を模索していった。

 こうした要素が加わるにつれ、野球選手のフィジカルに対する意識はさらに高まり、休養期間であっても適切なトレーニングを続けて身体の維持に努めるようになった。この頃からポッコリとしたおなかを抱えながらプレーする選手が少なくなり、プロ野球選手の「アスリート化」が進んだ印象が強い。

 また、2003年の秋に中日の監督に就任した落合博満が、翌2004年2月の春季キャンプで当時としては異例となる主力も含めた紅白戦を行うことを明言。口先だけでなく実際に敢行したことも、後々の自主トレに影響を与えた。
 それまでの春季キャンプは、各球団とも2月の前半は体力作りを目的としたトレーニングの練習メニューが多く組まれていて、その後、試合形式の実戦練習や紅白戦を増やしていく流れが一般的であった。だが、初日から実戦形式の紅白戦を行うようになったことで、主力選手であっても自主トレ期間中にきっちりと体を仕上げ、技術面においてもしっかりと調整しておく必要にかられるようになったのだ。

 こうした流れにより、選手のオフの過ごし方は休養を重視して完全にリセットする形から、前年までのシーズンや秋季キャンプで蓄積されたスキルをできるだけ維持するために、強度を落としつつもある程度トレーニングを継続するスタイルが主流になっていった。

国際大会へのプロ参加が球団の壁を超えた自主トレに発展

 そのほかにも、2000年代に入った頃から変化が生じたことがある。それは、他球団の選手が集まって一緒に自主トレを行う光景だ。
 これは、オリンピックにプロが参加するようになったことや、ワールド・ベースボール・クラシック(WBC)の開催により、プロの日本代表チーム(侍ジャパン)が結成されるようになったことが影響している。

 以前のプロ野球界は12球団の対抗意識が激しく、他チームの選手との交流は暗黙のタブーという空気があった。アマチュア時代に同僚だった選手同士でさえも、表立って談笑することははばかられるほどであったという。
 そのため、合同自主トレが撤廃されたあとも、1990年代頃の自主トレでは、自チームのチームメイト同士で連れ添って行われることが多かった。

 ところが、日本代表チームが編成されるようになると、招集された各球団のトップクラスの選手同士の仲が深まり、球団の壁が取り払われるようになっていく。選手の交流は元のチームに戻ったあとも続き、お互いチームメイトを紹介し合うなどネットワークが拡大。メールやSNSなどコミュニケーションツールの進化も相まって、プロ野球界は現在のようなよりオープンな土壌に発展したのだ。

 このような変化により、自主トレも仲のよいチームメイトだけでなく、現在のような他球団の選手が入り交じったグループで行うスタイルが増えていく。
 ときには、過去まったく面識のなかった他球団の選手に対して、その調整ぶりを近くで見ることで飛躍のきっかけを得ようと思い切って打診し、一緒に自主トレをするケースも出てきた。今オフでいえば、清宮幸太郎(日本ハム)がパ・リーグを代表する選手となった柳田悠岐(ソフトバンク)の自主トレに志願して加わったのがわかりやすい例だろう。

2月1日からいよいよ春季キャンプへ

 とはいえ、実績の乏しい若手選手については、外に出ることなく球団の施設で自主トレ行う者が多い現実もある。特に寮に入っている選手であれば、練習施設は隣接しているし、同じような立場の選手が必然的に集まる。単独や少人数で練習するよりもできることは増えるし、直接指導はしないものの、コーチも常駐して状態をチェックしてくれているので、やりやすいのは確かだ。
 また、外部からの指導を独自に依頼したり、他球団の選手と一緒に場所を移して行う自主トレは、当然ながら費用がかさむ(座長的な選手がある程度負担してくれる場合はあるにしても)。年俸の安い選手はそもそも経済的に難しいし、費用を出せたとしても球団の施設で行うことにメリットを感じて通う者も中にはいる。
 このあたりは選手個人の考え次第であり、まさに“自主的な”判断のもと、多種多様な自主トレ文化になってきているといえるだろう。

 オフの調整の方法について個性が出てくるようになった現在、それが春季キャンプ、オープン戦でどのような成果として表れるか? いよいよ、2月1日から12球団一斉に春季キャンプを迎える。
今シーズンはどのような展開が待ち受けているだろうか。初日からすでに勝負は始まっている。

フリーライター
キビタキビオ

《野球をメインに媒体の枠を超えて活動》
2003年より専門誌『野球小僧』(現『野球太郎』)の編集部員を務める傍ら、様々なプレーのタイムを計測する「炎のストップウオッチャー」を連載。12年にフリーとなり、インタビュー、データ、野球史の記事や選手本の構成など幅広く担当。『球辞苑』(NHK-BS1)にも出演中。

文/キビタキビオ

Begin Recommend

facebook facebook WEAR_ロゴ